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ルドン&シュバンクマイエル

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 7月28日(水)12時34分40秒
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   平野君、村上さん、発表お疲れさまでした。
 平野君の「オディロン・ルドンの黒」は、タイトルどおり、ルドンの作品における黒の問題を主に扱ったものでした。黒のことだけを扱うと、あまりに広がりがない感じがしたので、打ち合わせのときにもう少し別のテーマも入れるように平野君に頼んであったのですが、眼、球体、飛翔等についても言及してもらうことで、ルドンの世界を包括的に見られるようになったと思います。ただその一方で、こうした種々のテーマと黒の関係がはっきりしない部分がありました。もちろん、ルドン自身にとってもその関係ははっきりしないままだったかもしれないのですが、そうした関係性の筋道をつけてやり、その先にある種の結論を見出して、ルドンの世界をさらに深く読み解けるようにしてやるのが、批評であり研究である、ということになるのだと思います。そうした関係性の発見はある意味でスリリングなものでもありますし、それができれば、本当に自分の言葉で問題の作家や作品について語ることができるようになるはずです。そうした喜びというか、一種の快感のようなものを知ってもらいたいです。
 それにしても、この授業をすでに何年もやっていますが、ルドンについての発表はこれが初めてでした(先週のムンクも、前例がなかったのですが)。やはり、油絵より版画が主体のイメージがあり、ややマイナーな感じがするのでしょうか。独得の世界を描く人なので、魅力的で、ぼくは昔から好きでした(文学とのつながりも深いから、ということもあるのですが)。

 次に、村上さんの「ヤン・シュバンクマイエル」について。
 村上さんは、もともとシュバンクマイエルに関心があったというわけではなく、『アリス』をテーマにしたいというのが出発点だったので、シュバンクマイエルをどう受けとめるかやや心配だったのですが、それなりに興味を持ってくれたようで、安心しました。もちろんフランスとはやや傾向が違うのですが、チェコは、シュルレアリスム運動が盛んだった地域で、シュバンクマイエルもシュルレアリストとみずから言っている人です。そうした意味でもおもしろいのですが、そのことは抜きにしても、見てもらってもわかるとおり、独得の作品を制作する人です。グロテスクな部分があるので、人によって好ききらいはかなりあるでしょうが。
 村上さんの発表は、「不正操作」と「触覚的想像力」という、シュバンクマイエルならではの人形アニメの根幹にかかわる側面を取り上げてくれたと思います。その一方で、その二つの側面のあいだの関係や、他の要素(夢や潜在的内容)との関係がややはっきりしませんでした。また、それとも関係するのですが、なぜ『アリス』なのか、という点ももう少し言ってもらいたい気がします。シュバンクマイエルの『アリス』が原作とかなり違うものになっているのは確かですが、それでも『アリス』を映画化しようと思ったことに変わりはないわけですから。
 シュバンクマイエルの映画を見ていると、どうしてもに触覚ということを考えざるをえなくなるのですが、この触覚というのは、本来は映像に最も欠けているもののひとつです。それをあえて持ち込もうというのがシュバンクマイエルのおもしろいところですが、それは映像を原理的に考えるきっかけにもなるかもしれません。それと、彼の作品には、上にも書いたように、グロテスクなところがあるのですが、彼の場合だけにかぎらず、なぜ美しいものでなくグロテスクなものをあえて扱う作品があるのか、グロテスクということをどう考えたらいいのか、ということも大きな問題ですし、これはそれこそ「無意識」というテーマにもかかわってくるように思います。
 
 

発表の覚書 9

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2010年 7月28日(水)01時06分21秒
返信・引用
   ルドンの木炭画の軽みを帯びた顔は、画風が変わってからの油彩画の花の生けてある花瓶の重みと対照的で、色彩の違いだけでなく重力の変化を感じさせる。授業での「飛翔」に当てはまる顔が絵の中央より少し上に位置している、という指摘は、確かに当たり前のことかもしれないけれど、引用されていた四つの図版の「顔」の高さがあまりに重なっていたことと、絵全体を一つの目と見た場合、「目玉が少し上を向いている」という共通性は絵画自体にも適応するのでは、と思ったためです。

 見た目はかわいらしい少女が、その容姿からは想像できない程にクッキーやらインキやらを口に放り込むことによって物語が展開しているように見えるのがシュヴァンクマイエルの『アリス』である。確かにクッキーは食べられるものだが、パンから釘が飛び出し、缶詰から虫が這い出る状況にあって、尚その世界のものを口にするというのは、通常は考えられない事態であろう。たびたび少女のつぶやきが口のクロースアップと共に発せられるのも、この「食欲」と無関係とはいえない。もしかしたら少女は凶暴な兎たちに負けず劣らない「怪物」かもしれないのだ。

 発表、お疲れさまです。
 

発表の覚書 8

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2010年 7月20日(火)22時15分46秒
返信・引用
   『叫び』の背景に見られる「うねり」が、ソクーロフの映画に見られる「歪み」ではなく、生命の「流れ」だということが分かり、ムンクの絵に対する興味が募った。「性」は少女が女性となるように断ち切ることが出来ず、そのことを恐ろしいと思いながらも同時に惹き付けられてしまう倒錯的な状況が彼の絵の「不気味さ」となっているのだろう。

  (…)この「不気味なもの」は実際にはなんら新しいものでもなく、また、見も知ら
  ぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程
  によって疎遠にされたものだからである。
                 (「不気味なもの」、『フロイト著作集 第三巻』)

 一次資料を徹底して調べると、それぞれの事実が関連し合い動き始めるということがあると思うのだけれど、今回の発表の元となった『パウル・クレーとシュルレアリスム』も、そのような一冊である。クレーの作品にシュルレアリスム作品との共通点を見ながらも、そうと分類しきれない所は確かに興味深く、そこから展開して「シュルレアリスム」そのもの(言葉、運動?)を揺るがしていけば、より広がりのある見方が出来るのかもしれないな、と思いました。

 発表、お疲れさまです。
 

ムンク&クレー

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 7月20日(火)18時38分35秒
返信・引用
   最初に訂正から。
 前回、ブニュエルについてのところで、「「積極的な想像」と「受身の想像」の違い」ということにふれましたが、これは花本君の言葉ではなく、花本君の発表を聞いて山本さんが言ってくれたコメントでした。花本君自身は、想像と無意識を比較し、「論理的・条理的なものをはずした想像」が無意識になるのではないかと述べていてくれたと思います(また違ったら訂正してください)。失礼しました。

 さて、今回の発表に移りましょう。加藤さん、福永さん、発表お疲れさまでした。例によって感想など書いておきます。
 まず、加藤さんの「エドヴァルド・ムンク――ムンクの作品を通じて無意識と意識を探る」について。
 ムンクについてよく調べてくれて、その人生との関係で作品を見ていくという発表で、わかりやすい発表だったと思います。個人的体験が作品にどう反映されるかをみていというのは、ひとりの芸術家について考える場合の基本的な姿勢ですし、大切なことでもあります。しかし、ムンクの絵に「心の中に生まれた戦慄や不安」を読み解くだけでは、彼の絵を見た人の大半がおそらくは抱くであろう印象を言葉でまとめたにすぎなくなってしまうでしょう。『思春期』についてはかなり作品に添った説明がありましたが、『叫び』の場合は作品成立の過程などについての説明がほとんどで、作品そのものを論じているとあまりいえない部分があったように思います。教室でも言いましたが、「うねった独得のタッチに、どこか奇妙な絵」であるのはたしかなので、その点についてもう少し分析してもらいたいですね。どこからあのうねるタッチが出てきたのか、どうして人の顔をあのように描くようになったのか、など考えることはいろいろあると思います。ちなみに、『叫び』の顔にももしかすると関係するかもしれないのですが、レジュメの「2.作品」のところに、「不必要な細部を除き去った」とありますが、それがどいうこことなのかもあまり説明がなかったように思います。
 それから、シュルレアリスムとの関係性の部分は、少し中途半端ですね。この授業でぼくがシュルレアリスムの話をしてきたので、それでこうした項目を入れてくれたのだと思いますが、言うまでもなく、シュルレアリスムも、そしてプリミティヴィスムも、ムンク以降に出てきたものです。ということは、当然ながらムンクへの影響関係はなく、較べるとしても、似たところがあるということしか言えないことになってしまう。あえて比較するのであれば、それが発表全体のなかで意味を持ってこないといけないわけですが、どうもそれだけの意味があったとは考えにくい。そのあたりの扱いについても、レポートにするときに考えてください。
 それにしても、ムンクの絵が気持悪くて好きではないという人が多いのですね。ぼくは、10代のころ、ムンクの絵がけっこう好きで、部屋の壁に『叫び』の複製を貼っていたりしたこともあります。暗い少年だったということでしょうか。

 次に、福永さんの「クレーとシュルレアリスム――クレーはシュルレアリストか?」について。
 これは、クレーについての批評などのなかから、クレーがシュルレアリストであるとする説とシュルレアリストではないという説を紹介してくれるというもので、やや異色の発表であったかもしれません。それぞれの評者の言葉をもとにキーワードを提示して、それとの関係でクレーについて考えるというのは、なかなかおもしろい試みだったと思います。しかし、これをするためには、クレーについての基礎知識がないとうまくいかない部分があるので、最初に、クレー本人や彼の絵画についてもう少し説明があったほうがよかったでしょうね。そうでないと聞いているほうは、評者の言葉の検証を作品によってするということができないわけですから。もちろん、福永さんが言っていたように、シュルレアリスム的な絵を描いていたとされる1919年から31年のあいだの図版があまりなかったということはあるのかもしれませんが、それにしても、せめて言葉でその特徴のようなものをある程度示してもらわないと、ただ評者の言葉を読んでいるという感じがしてしまいます。
 このこととも関係しますが、ムンクより若い世代とはいえ、クレーもシュルレアリストの世代よりはかなり年が上です。シュルレアリスムの画家のなかでも年が上のほうのエルンストは1891年生まれですが、クレーは1879年生まれですから。従って、ムンクの場合よりは可能性があるにしても、シュルレアリスムの影響云々はあまり言えないと考えたほうがいいと思います。そうしたなかであえてシュルレアリストかどうかと問うのであれば、そう問うことで、クレーの作品への理解が深まるとか、クレーの作品の別の見方ができるとか、そういうことがないと表層的な比較で終わってしまうでしょう(むろん、むしろクレーの絵がシュルレアリストたちに影響を与えたという可能性もありますが、それはまた別の方向性に向ってしまうはずです)。そうした意味でも、クレー自身やその絵画についての言及がもう少しあるとよかったですね。
 それにしても、今回はムンクとクレーという、特に色彩の面では対照的な画家が並び、一方はあくまで一種のリアリズム、一方はむしろ抽象絵画に向かうという意味で、おもしろい組み合わせになりましたね。
 

発表の覚書 7

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2010年 7月15日(木)09時51分11秒
返信・引用
   エルンストのコラージュ小説を読み、見ていると、画とその下に添えられたキャプションを見比べることにより、ページを捲る運動が一瞬停止するという事態が生じる。もし画だけであれば、変なものと括られて処理されてしまうかもしれない作品が(そうでもないか)、画に関するものだが、それと微妙にずれた内容の文字と照らし合わされることで、読むように見る、というゆるやかな経験を人に与えるのである。

 フランス、メキシコ、アメリカと、国をまたいで映画を作り続けることの出来る才能をダニエル・シュミットのようだ、とかの批評家なら呟くのかもしれないが、その才能はブニュエルの柔軟さのみならず、彼の作品の面白さあってこその賜物であり、その想像力の自由さの中では道徳は二の次となっている。
 『映画、わが自由の幻想』を読んでいても、ピカソやフリッツ・ラングに絵やサインをもらうブニュエルは、もうその行方を思い出すことは出来ないし、そのことにこだわりもしない。
 『黄金時代』や『ビリディアナ』の上映禁止から、もたらされたと思われるブニュエルの宗教批判的イメージがしっくりとこないのも、批判という言葉ほどブニュエルの作品に無縁のものもないからであろう。

 発表、お疲れさまです。
 

エルンスト&ブニュエル

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 7月14日(水)10時38分25秒
返信・引用
   山本さん、花本君、発表お疲れさまでした。例によって感想めいたことを書きます。

 まずは山本さんの「Max Ernst ~シュルレアリスムと絵画~」について。
 字が小さくてやや見にくいということはあったものの、パワーポイントを使った発表はすっきりとしていて、聞きやすい発表でした。エルンストの絵を発表のながれのなかで画面で見せてくれたり、そうしたエルンストの絵に対する山本さんの反応を書いてくれたのもよかったと思います。それにしても、エルンストの使ったさまざまな技法やそれを通して描かれた世界をこうして見せてもらうと、あらためて彼の絵画世界の豊かさということを実感させられます。そうした意味では、最後のほうにせっかく「影響」ということで、彼の絵画のモチーフ(鳥や森など)に関係する話題を盛り込んでくれたのだから、そうしたモチーフと技法を結びつけることができると、さらにその豊かさがはっきりしてきたと思います。たしかにエルンストはさまざまな技法を用いていますが、同じ技法を用いている他の画家との相違ということを考えなくてはなりませんから。それと、教室でも言ったように、発表の最後にまとめのようなものがほしいですね。
 ぼく自身の発言に関して、ひとつ訂正があります。『百頭女』などについて、実際の作品にはもっと文章も出てくるというようなことを言いましたが、それは必ずしも正しくありませんでした。『慈善週間』はほとんど文字が出てこないコラージュ・ロマンで、そのことが記憶にあったため、それに較べて『百頭女』のほうはそこそこ文章が出てくるようなイメージがあったのですが、確認してみたところ、『百頭女』も、すべてのコラージュに文章が付いているものの、かなり短いものが多いですね。失礼しました。いずれにせよ、コラージュ・ロマンは翻訳があって日本語で読めますし、いろいろと参考になる他の文章も掲載されていたりするので、図書館などで一度本を開いてみるといいと思います。

 さて、次に花本君の「無意識と想像と解釈と感想」について。
 ブニュエルの『アンダルシアの犬』と『黄金時代』を扱った発表でしたが、前に授業で『アンダルシアの犬』を見たときは、おそらく皆さんの頭の中にクエッション・マークがたくさん浮かんだはずで、そのクエッション・マークが今度の発表で少し減ったかもしれません(一方で、新たなクエッション・マークが出てきた部分もあるかもしれませんが)。発表の内容としては、むしろ『黄金時代』のほうを詳しく取り扱ってくれましたが、もう少し映画の内容などの説明があったほうが(たしかに内容を説明しにくい映画ではあるのですが)、その一方であのように不条理なシーンがある驚きのようなものが伝わりやすかったかもしれません。
 花本君自身も言っていましたが、全体に紹介のレベルからあまり出ていないということはたしかにあります。それはたとえばブニュエルならではの表現とは何なのか、それとシュルレアリスムはどこまで関係し、どこからは関係しないのか、などといったことが明らかにされないからです。そのあたりを少し考えてもらいたいですね。
 最後のまとめのところで言ってくれた「積極的な想像」と「受身の想像」の違いというのはおもしろいと思います。これだけを取り上げてもブニュエルを論じることにはならないと思いますが、シュルレアリスム的な無意識を考える上でのヒントになるような気がしますし、それを突き詰めていくと、ブニュエルについて考察するうえでの手がかりも出てくるかもしれません。
 

チャップリン&つげ義春

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 7月 7日(水)00時16分22秒
返信・引用
  伊藤君、逵君、発表お疲れさまでした。例によって、感想めいたことを簡単に書いておきます。

 まず伊藤君の「“映画作家”チャールズ・チャップリン」について。チャップリンについて詳しく調べ、よくまとまっていたと思います。ただ、伊藤君の考えるチャップリン像とぼくの考えるチャップリン像のあいだにずれがあり、また、無意識という問題についてもずれがあったように思います。そうしたずれがあること自体は必ずしも悪いことではなく、それをもとにいろいろ議論ができればいいのです。特にチャップリン像については、どちらの考えが正しいとか間違っているとかということではなく、見る角度によってずれてくる部分があるはずです。そういう意味では、発表者以外の人たちにもあらかじめチャップリン作品を見てきてもらって、いろいろな意見を出してほしかった気がします。
 無意識のほうは、この授業のテーマでもあるので、いろいろな意見があってもいいものの、ある方向性をつけておく必要があるでしょう。伊藤君が考えているのは、無自覚とか無思想とも呼べるようなものであって、それもたしかに無意識の一種とは言えますが、ぼくが考えてみたいのは、作品を豊かにしている無意識です。実際チャップリンは、無自覚や無思想は批判の対象としているわけです。では彼の作品を豊かにしている無意識とは何かといえば、たとえば「ティティナ」の場面で見られる彼の身体の動きやインチキな外国語です。こうしたものはチャップリン自身にとっても、観客にとっても、レッテルを貼って意味づけをしてすんなりと意識のなかに納まってしまうものではないでしょう。そうしたある種「余剰」のようなものが作品を豊かにしているのだと思うのです。

 次に逵君の「つげ義春 ねじ式における無意識」について。
 逵君の発表は、特にコマの断絶に注目したもので、これ自体は上に書いた「余剰」のような生み出す効果があります。しかし、教室でも言いましたが、コマの断絶というだけではかなり大雑把な説明になり、つげ義春の場合と他のやはりコマの断絶を引き起こしている漫画の場合の区別をできなくなるでしょう。どのように断絶が起き、その断絶がどのように機能しているのか、断絶によって何が生じているのか、断絶の前後に何があるのか、そういったさまざまなことを考えてみる必要がありそうです。また、漫画におけるコマの連なりの文法のようなものがあるはずで、まずはそれについて考え、そこからどう逸脱しているのか、というような論の進め方も有効かもしれません。
 発表では、「ねじ式」が夢を基に作られた点も強調されていたと思います。これも当然ながら「余剰」を生み出すわけで、無意識に関係してきます。しかし、夢を基にしたというだけなら、ジャンルは異なるとはいえ、『アンダルシアの犬』と同じことになってしまいます。ところが、作品を見て受ける印象はかなり異なるでしょう。ならばどう違うのか、「ねじ式」の夢の特徴は何なのか、といったことを考えるべきでしょう。そこから本当の意味での「ねじ式」論が始まるような気がします。
 

発表に関しての覚書 6

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2010年 7月 5日(月)00時53分15秒
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   チャップリンに関しての発表は、その内容は理解できるものの、何だか良く分からない所も…。それというのは、発表を聞いていて、その映画の場面を思い浮かべることが出来ないためであろう。これは、参考にしていたサドゥールの著作に依る所が多いと思われる。もちろん、彼の『チャップリン:その映画とその時代』は丹念な調査のもとに書かれた、司馬遼太郎を読む様に目を通すことの出来る優れた書物ではある。しかし、その一方でドゥルーズの『シネマ』という映画=哲学書があり、たとえ、その意味する所、方向性に大きな違いは見られないとしても、読むことを通じて映像を想起することにより、受ける印象は大分異なってくるはずである。チャップリンに関しては、彼の映画に見られる「小形式」について考察されている部分を確認してみるといいかもしれない。(『シネマ1 運動イメージ』pp. 295-302)
 また、語り方の問題で気をつけなくてはいけないのは、主語を作品でなくチャップリンとするだけで、作家主義という政治を孕んでしまうということ。しかし、彼の映画を見ることで生まれる「笑い」は、笑いにも様々なものがあることを考慮するにしても、そのような政治から軽やかに逃れてはいないだろうか、政治がないというのではなく。

 つげ義春の発表に関しては山根貞男の『手塚治虫とつげ義春 現代漫画の出発点』を参考にした主張で、その内容に異論はない。「ねじ式」の象徴的、抽象的な画と、主人公が途中遭遇する汽車や、モーターボートが水面を抉り作り上げられる波の情報量の多さの差異は、確かにコマとコマの間を浮かび上がらせるものであろう。そういえばこれもまた極めてドゥルーズ的な見方である。「et」の哲学…。
 興味深いといえば、短い話の中で主人公の顔が随分と変化している印象があるということ。また、ちくま文庫のつげ義春コレクション『ねじ式/夜が掴む』の中の解題によると、主人公の顔は後年書き換えられていて『ガロ』初出時と若干異なっているようなので、そこも調べてみると何か見つかるかもしれない。

 以上、発表お疲れさまでした。
 

ソクーロフ&ベルメール

 投稿者:谷 昌親  投稿日:2010年 6月30日(水)12時59分31秒
返信・引用
   酒井さん、藤掛さん、発表お疲れさまでした。例によって、感想めいたことを書いておきます。

 まず、酒井さんの「『穏やかな生活』を通して」について。酒井さんは映画と写真を散文と詩の関係とパラレルに考えていて、そうした対比で言えば、散文的であるはずの映画でありながら、ある意味では写真に近い詩的性格を備えた作品として、ソクーロフの『穏やかな生活』を取り上げてくれたということだと思います。たしかに、『穏やかな生活』にはどこか詩に近いものがあり(実際、ナレーションで詩に近い言葉が語られたりもするのですが、それとは別に、映像そのものが詩的であると言っていいでしょう)、しかもそれが、ベンヤミンの言う「カメラの無意識」と関係しているように感じられます。映像をとおして見ることで、われわれが肉眼で見ているときには気づかない細部が意識にのぼってくるわけですが、それが明確な意味やメッセージを担っているわけではないので、詩的に感じられるということだと思います。これは、映像というものが本来的にもっている力のようなものを考えるときに、非常に重要な視座だと思います。
 そういう意味では興味深い発表だったのですが、そうした「カメラの無意識」は当然ながら他の映画にも関係してくるはずで、では他の映画にも詩を感じるかと言えば、そうとは言えないでしょう。ですから、ソクーロフ作品の何が無意識を呼び覚まし、詩を感じさせるのか、といったことを考える必要があります。もちろんそのことを発表のなかでもやろうとしてくれたのだと思いますが、カメラの無意識の問題と松吉うめのいわば存在感のようなものという二つの要素が出てきて、その関連性がうまく説明しきれていない部分があります。そのあたりをもう少し掘り下げてもらいたいですね。

 続いて、藤掛さんの「ハンス・ベルメール 人形から写真に至るまで」について。ベルメールの人形については、精神分析学との関係がよく指摘されるだけに、無意識の問題については考えやすいかもしれません。発表にあったフロイトの局所論のほかにも、ラカンの鏡像段階以前の身体感覚との類似などがよく言われます。自己の身体イメージの確立はアイデンティティの確立と並行しますが、その過程で無意識的なものは排除ないし抑圧されると考えられるので、ああしたベルメールの人形は、それ以前の段階への遡行とも見なせる、というわけです。
 そうした議論はよくあるのですが、ではなぜその人形を写真に撮るのか、といった論点は案外ないように思います。そういう意味で、写真を夢になぞらえるというのは非常におもしい発想です。ただ、夢の検閲・歪曲の効果が「写真の人形に触ることができない」ということだけだと物足りないので、もう少し写真における検閲・歪曲の効果の具体例を考えてもらいたいですね。それと、写真は夢と同じだというとき、その夢というのはもっぱら検閲・歪曲の効果のことなのか、それともそれ以外の要素もあるのか(たとえば、酒井さんの発表では写真=詩だったわけですが、それに近い効果をここでも写真に認めるのかどうか)、あるいはまた、発表の最後にあった「様々な対立を成立させ、それを乗り越えたあらたな表現を生み出す」とあるが、それはどういったことなのかと、こうしたことについても明らかにしておく必要があるように思います。
 

発表に関しての覚書 5

 投稿者:中井 智浩  投稿日:2010年 6月27日(日)03時25分0秒
返信・引用 編集済
   ソクーロフ作品の何処か遠くから聞こえてくる音や、煙などにより暈された光、歪められたセットはその空間を浮かび上がらせるし、それが郷愁、記憶、死に結び付くことは『精神の声』をはじめ彼の作品を見れば明らかです。映画がその初めから備えていた記録という性質に意識的なソクーロフはそうして「ドキュメンタリー」の空間に新たな地平を切り開きます。
 どうしてもアマチュアなゴダールとは違って、しかりとした芸術家であるソクーロフは、元の映像素材に様々な手を施し断絶をもたらすことなく、それらを織り込みます。例えば彼の作品の空を見れば、そこには黒澤明が遺作『まあだだよ』で到達したかもしれない不自然の自然さがあるはずです。
 とはいえ最新技術に抵抗があるわけでもなく、『太陽』ではCGの怪物が『ハウルの動く城』さながら爆弾をばらまき、はたまた『ロシアン・エレジー』では揺れる葉を画面におさめるだけで何やら宇宙なるもの、SF世界すら浮上させてしまうのだから、ソクーロフとは一筋縄ではいかない厄介な人物なのです。

 腹部そのものを球体関節とし、それを中心に二組の脚が股をひらく形でのびる写真を見ていると、男性の性的嗜好だけでなく、女性の同性愛も垣間見える様に思え、フーリエ的な浮気さを感じないでもない。
 また写真に映し出された関節や胸の球体の、ものがそこにある、という即物性は、押井守の『イノセンス』からは感じ取れない。ウニカ・チュルンの緊縛ヌードにしても、紐の合間から盛上がる肉体に即物性を感じはしないか。

 ちなみに以上の即物性をゴダール作品に見た書物が、松浦寿輝『ゴダール』であり汐留ミュージアムで開催中の「ハンス・コパー展」もこの文脈から鑑賞することも出来るだろう。

 ついでだが、電車の中で真面目な顔をして読める小説として『マダム・エドワルダ/目玉の話』がある。

  ある夜のこと、体のきかない父が寝室でわめきちらす言葉で、母と私は目を覚ましました。父は突然発狂して
  いたのです。私が医者を呼びに行き、医者は急いで駆けつけました。父は一番楽しい出来事を空想し、雄弁に
  まくしたてています。医者が母と一緒に隣の寝室に引っこむと、気が触れた男は大音声で叫んだのです。
  「(…)」
  父は笑っていました。父のこの言葉は厳しい教育の成果を粉砕し、恐ろしい大笑いのなかで、私にけっして消
  えない義務感を負わせたのです。それは、無意識のうちに、自分の人生と思考のなかで、つねにこの言葉に匹
  敵するものを探さなければならないという義務感です。おそらくそれがこの「目玉の話」のなりたちを説明し
  てくれる事実なのです。

  省略された台詞に興味を持たれた方は本をお求めになって下さい。発表ご苦労様でした。
 

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