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タカラヅカ・酒場放浪記(前)

 投稿者:編集部  投稿日:2018年10月19日(金)07時22分22秒
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       タカラヅカ・酒場放浪記(前) 





 森進一のヒット曲に「港町ブルース」がある。あんなふうに盛り場を北から南へ追って
書いてみたら、面白いだろうなと思っていた。佐賀さくら会(県内の宝塚歌劇愛好者の会)
から、会報に連載記事を依頼された時、宝塚をタテ糸に、各地の盛り場をヨコ糸に文を紡
ぐことを思いついた。本文は、平成29年から30年にかけ同会報に連載したもの。書いてい
る最中、『斜光』も意識していたので、宝塚ファンならずとも面白いと思う。
 というのは、盛り場は時代の世相や社会の変遷、人生の一端を写すものだからである。




プロローグ

昭和40年、川崎製鉄(現JFE)に入社以来、千葉(製鉄所)、神戸(本社)、東京(本
社)、札幌(支店)、大阪(支社)、平成7年、関係会社に移り、大阪・名古屋・東京と
転勤を重ねた。その間、生来の酒好きに加えて、営業畑が長かったせいもあり、各地の盛
り場に大いに通い、エンジョイした。そんな経歴から、今回は、各々の盛り場の思い出と
宝塚歌劇をコラボレートして書いてみようと企画した次第。題して「タカラヅカ・酒場放
浪記」。北の方から順に下りていこう。



第一章  札幌・すすきの編

 昭和58年から64年まで、札幌支店に勤務した。札幌といえば、すすきの。ここの一番の
特徴は明るいこと。よそと違って、水商売とか夜の仕事といった後ろめたさや暗さがほと
んど感じられない。おおらかで大陸的な土地柄もあるが、やはり開拓後の歴史が浅く、親
類・家族間の家制度的なしがらみが少ないせいだと思う。もう一つは若い女性が多いこと。
札幌は支店経済と言われるように出先機関は多いが、大きな工場や会社は少ない。折角,
憧れの札幌に来て、大学を卒業したのに就職できない女子大生が多くいて、すすきのがそ
の受け皿になっているわけだ。
 とにかく、すすきのの女性は明るく、屈託がない。昼食時に突然、事務所に現れ「お昼
ご馳走して」なんていうのは日常茶飯事。それでも「観楓会」(紅葉時に会社や役所が行
う社員旅行・北海道の秋の風物詩)に行きつけのスナックの連中が参加したのには驚いた。
極め付きは、私が企画した「日高ホースインラブツアー」。川鉄グループとすすきのの女
性約60名で、バスを仕立てて馬の種付けを見に行ったツアー。一頃、すすきの中の話題
をさらったものだ。
 さて、北海道にとって、タカラヅカは縁遠い世界である。もともと、本州以西をまとめ
て内地と呼ぶ程、道外には関心を持たない土地柄(東京だけは例外だが)。とくに関西は
昔、北前船でやって来た商人にいいように買い叩かれ、搾取された記憶があるらしく、関
西弁を聞いたとたん身構える道民は多い。きちんと調べた訳ではないが、タカラヅカの認
知度、ファンの数、道出身のタカラジェンヌの数など、ワーストワンに近いと思う。
そんなすすきのに〝宝塚を演(や)っている〟店があるという情報が飛び込んできた。早
速行ってみると、マンションの室をバーに改造した(すすきのでは珍しくない)、タカラ
ヅカをパロディ化して見せるオカマ系のコミックバー。ショータイムになると、店内が暗
くなり、カウンターに幕が引かれ、おなじみのアナウンスが流れる――こんにちは、花組
の安奈淳(あんなじゅん)です――。そして、幕が開き、証明が点くと、そこには、むく
つけき中年のオカマが数人、派手な着物をまとい、チョンパよろしく、思いのポーズを決
めている。顔中、白く塗りたくり、鼻の穴に箸を2本突っ込んだり、あられもない格好を
したりと……。やがて元禄花見踊りの調べに乗って踊り出すという趣向イキ、嗚呼。
 すすきのは楽しい町だが、タカラヅカに限って言えば、いい思い出はない。




第二章  東京・銀座編

 昭和55年から58年まで東京本社に勤務した。サラリーマンにとって東京勤務は、それな
りに緊張するものだが、加えて私の場合、それまでの労働部門から営業部門への転勤、つ
まり、内向きの仕事から外向きへと変化したため、当初はかなりとまどった。名刺の渡し
方から電話のかけ方、部屋や車の座り方、接待の仕方等々、一から学ぶことが多かった。
 それもマニュアル通りには行かないのが難儀なところで、例えば、相手の目を見て話せ、
と言われるが、睨んでいると誤解される場合もあるので、やや下の、ネクタイの結び目あ
たりに目をやるのが無難である。又、テレビドラマでよく、貰った名刺を机に置くシーン
があるが、あれはまずい。やはり、感謝の気持ちを示しながら、丁寧に名刺入れに仕舞う
のがいい。そのためにも名刺入れは上等なものを持ちたい。
 次に接待。常識的には、接待する側は酔ってはいけないとされている。しかし、接待さ
れる方も、それなりに警戒心があり、勧められたからといって、そう簡単に飲んではくれ
ない。まずは、こちらが先に酔うこと。それを観て相手も安心して飲み出す。折りをみて、
こちらは正気に戻る。これが接待の極意であり、当然、一応の酒の強さは要求される。
 東京営業に入って一番のカルチャーショックはカラオケ。「営業の課長で『昴』を歌え
ないのはいないよ」と言われたときはえらい所に来たなと驚いたものだ。カラオケは昭和
40年代の初め、神戸が発祥といわれているから、私は身をもってその興隆を体験したこと
になる。当初は歌集を見て歌う方式なので、出だしがわからなかったり、早かったり、遅
かったりと、慣れるまで大変で、家などで練習する人も結構いた。カラオケは本番で覚え
るもので、練習なぞ潔しとしない、というのが私の主義で、現在に至っている(威張る程
のことではないが)。
 50年代に入ると画面に歌詞が表示されるようになり、愛好者は爆発的に増えた。しか
し、当時の銀座は格式が高く、カラオケを置いている店は殆どなくて歌いたい人は赤坂や
六本木に流れた。その後、バブルの崩壊と共に接待族が減り、昔の銀座の面影は今はない。
 以上、東京の3年間は、営業の仕事も接待も修業の時代で、タカラヅカを観る時間も心
の余裕もなく、観劇は皆無だったと思う。そんな中、唯一、宝塚を謳歌できたのは、銀座
5丁目裏のビルにあった「すみれ」というクラブ。ママも含め女性の大半が宝塚のOG。
ピンク色に統一された店内で、アカペラだが、彼女たちのバックコーラスで歌った〝すみ
れの花咲く頃〟は忘れ難い。いわば、東京砂漠のオアシスみたいな店だった。




第3章  千葉・栄町編

 昭和40年6月、2ケ月間の実習(神戸・千葉)を経て、千葉製鉄所・工程課に配属され
た。そして43年、神戸本社に転勤するまでの3年間が、宝塚歌劇に最も入れ上げたという
か、没頭した時代だったと思う。宝塚にハマった理由については、本誌に連載した『宝塚
を好きになった理由』に書いた通りであるが、一番大きいのは、やはり素晴らしい作品に
巡り会ったということ―『世界への招待(パリ公演)』、『エスカイヤ・ガールズ』、『ラ・
グラナダ』『霧深きエルベのほとり』、『オクラホマ』、『花のオランダ坂』、『シャン
ゴ』等々、名前を挙げただけでワクワクするラインアップである。宝塚史における黄金時
代(僭越ながら勝手に規定させていただいた)にふさわしい作品群であり、再演を強く望
む次第である。
 もう一つ。旧・東京宝塚劇場の存在も大きい。立地条件や建物自体も素晴らしいが、場
内に入っての静かさ、奥ゆかしさ、落ち着いた華やかさ等、他の芸能にはないハイソな雰
囲気が、いかにも宝塚らしかった。又、東宝歌舞伎等との共用もあり、当時は年6回位し
か公演がなかった。それだけに選りすぐりの作品が上演され、生徒達も、より気合いが入
るという、いい条件が重なったともいえる。
 さて、千葉市一番の盛り場、栄町であるが、実習期間に味わった神戸。三宮の、お洒落
でハイカラで、エキゾチックな雰囲気とは真逆の、ケバケバしいネオンが目立つ、田舎じ
みた泥くさい飲み屋街。もち論、今は様変わりしているが、当時は千葉市自体が発展途上
にあったのだから仕方がない。それでも人は良かった。長嶋茂雄や浜田幸一を思い浮かべ
て貰えばわかりやすいが、開けっぴろげで、表裏がなく、向こう気は強いが、おおらかで
人なつこい。この県民性は、恵まれた気候と風土によるものといえる。即ち、夏は涼しく
冬は暖かい.地味は肥えていて、草木や作物の成長の早さは驚く程だ。転勤や出張のお蔭
でほぼ日本全国の気候を経験したが、一番住みやすいのは、千葉を含む東京だと思う。
 では、すみれコードならぬ、さくら会コードすれすれのエピソードを一つ。土曜の夜、
友達3人で飲み明かし、翌朝、栄町をぶらついている途中、早朝営業のストリップ劇場
を発見。入ってみたら客は自分達3人だけ。それでもスケジュール通りショーは開演。律
儀というか、融通がきかないというか〝ちょっとだけよ〟の場面になると、正面でやった
後、客のいない上手(かみて)、下手(しもて)でもやる。それでは詮無かろうと、正面が終
わると猛ダッシュで上手へ移り拍手し、次は下手へと―― 繰り返していたら、踊り子が
「あんた達も好きね」だって。




第4章  京都・嵐山編

 今回は酒場といっても高級な料亭の話。昭和50年頃、京都・嵐山の「吉兆」を2回利用
したことがある。渡月橋(とげつきよう)から歩いてすぐの風光明媚な、京都を代表する料
亭。当時、社内報を担当していたが、その企画「重役対談」の相手として、京大教授の今
西錦司(いまにしきんじ)氏、会田雄次(あいだゆうじ)氏に各々お願いした。京都は大学の
先生や学生を大事にする街で、兄弟の先生なら吉兆と、自ずと決まった次第。
 今西先生は文化勲章に輝く生物・人類学者。その棲分け理論はダーウィンの進化論に対抗
するものといわれている。お会いすると、酒好きの好々爺という感じ。「酔って寝ますと
ね、頭の下を酒が川のようにスーと流れますのや」と、意味不明なことをおしゃっていた。
対談終了後、当社の副社長に、慰労会をやってやると、祇園に連れて行ってもらった。ウ
ナギの寝床みたいに奥行きのある待合で、お座敷帰りの芸妓や舞妓に囲まれて飲んだ酒は、
まさに至福の味だった。
 ここで、東京と関西の料亭比べをやってみたい。実は同じ企画で、囲碁の坂田栄男(さ
かたえいお)氏と当時の藤本社長との対談を行ったが、その場所が築地の「新喜楽」。佐藤
栄作・元総理が急死したことで知られる超一流の料亭。
 吉兆と新喜楽に各々を代表してもらい比較してみよう。まず、芸事から。一応、宝塚の
日本物で鍛えた(?!)目からみて、唄や踊り、楽器の扱いには、そう差はなく、東京の
方がやや粋かなという感じ。料理は関西の方が圧倒的に上。雪で〝かまくら〟を作り、中
に刺身を入れたもの、焼いた石の上に赤貝を乗せたもの、ススキや秋の草花を盆に飾り、
松茸などをあしらったもの等々、今ではそう珍しくないかも知れないが、当時は、思わず
見とれてしまったものである。一方、新喜楽の料理は――刺身はマグロの赤身のブツ切り、
魚は鮎の塩焼き、煮物はふろふき大根――これでは家庭料理とそう変わらない(注;あく
まで当時の話)。ただ、女性の客あしらいは断然、東京の方が上。話をそらさない。どん
な話題にも的確に対応する。気のきいた、センスのいいジョークを放つ等々、見事なもの
である。一方、関西は、芸事が主で、接客にはそう関心がない感じ。(注;たまたまかも
しれないが)。以上、引き分けが妥当か。
 さて、会田先生は西洋史が専門の文学博士。『アーロン収容所』の著者としても有名であ
る。対談中、きっかけは忘れたが、宝塚ファンであると言われた。私もそうだと口をはさ
んだら、「何回か観た位で、ファン面するのはおこがましい」的な発言をされたので、大
正時代の作品で宝塚初期の名曲〝落ちた雷〟を歌ってみせた所、「君は本物だ」と言われ
て、面目を保った。いい思い出である。



つづく

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