teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

新着順:2/22 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

タカラヅカ・酒場放浪記(前)

 投稿者:編集部  投稿日:2018年10月20日(土)13時09分38秒
  通報 編集済
         タカラヅカ・酒場放浪記(後) 






第5章  大阪・北新地編

 平成元年、札幌支店から大阪支社に転勤、6年間、鉄構営業部の部長を勤めた。関西以
西を管轄する立場で、部下も20人近くいた。すでにバブルの崩壊は始まっていたが、大阪
とくに建設業界はまだ好調を維持していた。一つは関西国際空港の建設が続いていたこと。
もう一つは大阪オリンピック招致関連工事がその理由としてあげられる。後に散々批判さ
れる府や市がからんだ第3セクターによる〝箱物〟が続々と計画され、発注された――臨
空ゲートタワービル、WTCビル等々。これら物件を着実に受注し、大阪営業は一時、東
京に追いつかんばかりの勢いだった。
 ところで、大阪人と接すると、東京に対する不思議な対抗心に気付く。なんとかして勝
ちたいが、一方で、勝てるわけがないと諦めている。野球の阪神ファンに通じる、敗者の
美学というか。それにしても五輪招致の計画はあまりに杜撰(ずさん)だったし、無謀な建
設ラッシュだった。ひょっとすると、当時の大阪は招致を、東京に勝つ最後のチャンスと
考え、勝負をかけたのかもしれない。
 共石の向上と共に、接待の方も、より派手に、豪華になっていった。各地の温泉巡りに
グルメ旅行、沖縄や北海道へのゴルフツアー等々、いま思えば、この時期に一生分、遊ん
だような気がする。2~3印象に残っていることを上げると――船を仕立てて長良川の鵜
飼いを楽しんだこと、5年連続して、越中おわら風の盆に行ったこと(踊りつながり
で言うと、阿波踊りも四国支店の連(れん)に2年続けて参加した)、高知の箸拳(はしけ
ん)や金沢の太鼓打ちなど各地の御座敷遊びを経験したこと等々。ちなみにお薦めの温泉
宿ベストスリーは、城﨑の西村屋(本館)、加賀の百万石、和倉の加賀屋である。
 さて、大阪の盛り場はキタとミナミに分かれる。文字どおり、各々、大阪の北と南に位
置するが、キタの中心は昔の曾根崎新地にちなみ北新地(きたしんち)と呼ばれる。昔は
ミナミの方が有名だったが、官庁やオフィス街に近いキタが発展し、私が居た頃はキタが
完全に圧倒していた。
 その新地に「塁」という店があった。宝塚ファンなら、知る人ぞ知る、という店で、宝
塚関係者も多く出入りしていた。宝塚の歌なら何でもこなすピアノ弾きのおじさんがいて
行くたびに数曲は歌ったものだ。結構高い店だったが、接待に引っ掛けて(営業の特権?!)
かなり通った。常連となり、店に来た宝塚の関係者やOGを紹介してくれるようになっ
た。その一人が真帆志ぶき。『クレオパトラ』の主題歌を〝星降る夜のシリアの砂に~〟
と歌って見せた所、「レコードにも入れていないのによく覚えてくれた」と大変喜んでく
れたのを懐かしく思い出す。




第6章  神戸・三宮編

 昭和四十年四月、入社式のあと神戸本社で一ヶ月の実習を受けた。この時が三宮との初
の出会いであるが、印象は強烈だった。いま振り返ってみても、当時の三宮は日本一の盛
り場だっと思う。
 まず、元町通りから北野に至る広さ、加えて密集度が凄かった。そして、私の考える盛
り場の要素がすべてあった。まず、浪漫。次に猥雑さ。あだっぽさもあって、垢抜けてい
て、ノスタルジックな香りも……。
 要するに、非日常的な世界がそこにはあった。また、貿易港であるため、外国の船員が
多く、その相手をする外人の女性も居て、エキゾチックな風情が漂っていた。宝塚の傑作
ミュージカル『港に浮いた青いトランク』の主題歌〝私は神戸の街が好きなんだ〟の歌詞
にある「異人屋敷の窓辺にたたずむインドの哲学者」、「翡翠の指輪の光るチャイナガー
ル」は、当時の三宮のムードをよく捉えている。
 そして3年後、千葉製鉄所から神戸本社に戻り、再会した三宮はまるで別物、昔の面影
は殆どなかった。あのワクワクするような高揚感、刺激的だが、どこか浮き世離れした雰囲
気が消え去り、何処にでもある普通の盛り場になっていた。理由は、はっきりとはわから
ないが、一つは神戸という街の地盤沈下。当社を含めて,多くの会社が本社機能を東京に
移し始めた時期だった。もう一つは私自身の変化。思えば神戸本社での12年の間に、結婚
し、子供も2人恵まれ、家も買った。人生の節目を迎え、大人になったということか。
 さて、地元に戻り、宝塚観劇が増えたかというと、そうでもない。近すぎて有難みが薄
れるというか、ふるさとは遠きにありて想うもの、なのだ、何事も。結婚して6年間逆瀬
川(さかせがわ)の社宅に住んだので、天気のいい日は、長男を乳母車に乗せ、武庫川(む
こがわ)を渡り宝塚ファミリーランドによく行った。大劇場も一度連れて行ったが、大泣
きされて諦めた。
 仕事は社内報の担当だったが、同じ課に、「社員と家族のための慰安会」の係りがあり、
歌劇団の営業マンがよく出入りしていた。大人も子供も楽しめる宝塚は慰安会にぴったり
で、ほぼ毎年、貸し切りで使った。お陰で私も歌劇団に顔がきくようになり、座席は常に
前から10番以内。「かぶり付きは観にくいので、もう少し後ろにしてくれ」なんて贅沢な
ことを言っていた。この時期に観た作品を一本あげるとすれば『メナムに赤い花が散る』。
春日野八千代(かすがのやちよ)が山田長政に扮した時代絵巻。ラストで、麻鳥千穂(あさ
どりちほ)渾身の熱唱〝もののふの詩〟に合わせて、死を決意した長政が舞うシーンは宝
塚日本物史上、屈指の名場面だ。




第7章  神戸・最終編

 昭和40年春、神戸本社での入社式に出席するため、国鉄・住吉駅に降り立った日のこと
をよく憶えている。宿舎の住吉寮へは、なだらかな坂道を北に登る。両側は高い石垣と塀、
きれいな疎水が流れていた。後で知ったが、東側は幼稚園。園児の殆どが運転手付の車で
送り迎えされるとか。西側は住友本家の邸宅で、寮までずっと続いており、5分は歩いた
と思う。更に、通勤のため毎日、阪急・御影駅まで10分ほど歩くが、それは朝日新聞の
社主である村山家の屋敷を半周するのに要する時間なのだ。東京の田園調布や成城なんて
問題ではない、桁外れの豪邸に、関西財閥の凄さを認識させられた。
 その後、経済成長による大衆化社会の到来と共に〝神戸の山の手〟も変貌を遂げる。相
税対策のためか、土地が切り売りされ、いつのまにかマンションが立ち並ぶ、変哲も無
い町に変わっていった。その流れを決定づけたのが、平成7年の阪神大震災である。(私
も遭遇したが、幸いにも被害は少なかった)
 震災から4年後、宝塚ファンにとって胸踊るイベントが始まった。神戸復興の一役を担
うべく、宝塚のOGが結集して、「愛と夢・永遠のタカラジェンヌ」を神戸・文化ホー
ルで開催したのである。主催者は風さやか(かぜさやか)。昭和37年の初舞台で、主に踊り
手として活躍した。出演者は彼女が属した雪組生が多く、真帆志しぶき(まほしぶき)、加
茂さくらはほぼ毎回出ていた。公演は年1回で8年位続いたと思う。出し物は宝塚名曲メ
ドレーと名作の寸劇の2部構成だった。楽しかったのは、観客の中のOGを見つけ舞台に
上げる企画。久しぶりに那智わたると安芸ひろみの顔を見た時は感激した。又、牧美沙緒
(まきみさお)が舞台に上がった時、パリ公演の期間中、下っ端の風は、即席ラーメンの係
りだったと牧が明かし、それまで主催者然としていた風が、急にしおらしくなり、笑いを
誘った。
 平成12年、退職。佐賀に帰り、学生寮を継ぐ。15年、宝塚観劇を本格的に再開。神戸の
家を拠点に年間5~6回往復。年10回の大劇場公演の内、8回は観ている。
 平成26年夏、とんでもない事が起きた。あの加茂さくらと懇談したのである。それも4
時間!!。しかも隣り合わせのカウンター席で。妹さん(加茂すみれ)の経営するスナック
で会ったが、相変わらずきれいで、若々しく、実年齢(宝塚は絶対公表しないが、ファン
ならわかる)より20才は若く見えた。話の内容は酔ったせいで、あまり覚えていないが一
つだけ――私の持論である、音楽芸術は20世紀で終わったという説、とくにメロディは出
尽くしたため、新しいものは生まれない、と力説した所、「そうかしら〝花は咲く〟なん
て、いい曲だと思うけど」と言われ、あえなく轟沈した。 (完)

   


     平成5年頃、北新地のクラブで真帆志ぶきと     平成28年、佐賀出身の蒼舞咲歩、亜音有星の姉妹と(有田陶器市にて)
         

(斜光23号掲載)

1160

 
 

新着順:2/22 《前のページ | 次のページ》
/22