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宝塚を好きになった理由

 投稿者:編集部  投稿日:2014年12月 7日(日)14時52分29秒
  通報 編集済
  .

         宝塚を好きになった理由 
             「ヰタ・タカラヅカアリス」




    ファン歴約半世紀、地元佐賀で同郷のタカラジェンヌを応援する「さくら会」
   の会員でもある熱烈宝塚ファーンの回顧録です。宝塚ファンは女性という固定
   観念を打ち砕かれました。そう言えば手塚治虫もファンでした。アトムも妹ウ
     ランも母リンもどこか宝塚少女顔です。
    「ヅカ男」になる理由、経緯は人それぞれでしょうが、押し並べて一度良さ
   を知ると男女とも抜けられなくなるようです。あのけばけばしい化粧と出で立
   ち、大袈裟に聞こえる台詞に振り付け、そこに違和感を覚ていましたが、男女
   問わずその熱烈ぶりを見ると、宝塚には人を虜にするものがあるのだと考えさ
   れられる作品です。聞き覚えのあるタカラジェンヌの名前、作品がたくさんで
   てきます。  (α編集部)






  プロローグ

  "佐賀さくら会"をご存じだろうか。宝塚歌劇を愛する佐賀県民の会で、会員は二十余
名。会員相互の情報交換と親睦、及び佐賀県出身のタカラジェンヌの応援を主たる目的と
している。現在、佐賀県出身の劇団員(生徒と呼ぶ)は五名。うち、朝夏(あさか)まな
と、夢乃聖夏(ゆめのせいか)はそれぞれの組で二番手、三番手と目されるトップクラス
のスターである(註:組は花・月・雪・星・宙の五組)。県の人口や経済規模からいって
頑張っているといえる。たとえとしては変だが、高校野球の夏の甲子園で二回優勝してい
ることと似ていなくもない。
 さくら会には二○一二年、久富文雄君の紹介で入会した。"宝塚を好きになった理由”
は同会の会報(月刊)に二○一二年五月から二〇一四年三月まで連截したもの。書くにあ
たっては、森鴎外の『ヰターセクスアリス』を意識した。同作品は鴎外の自伝的要素が濃
いと言われ、主人公の性的生活史を記したものだが、性を宝塚に置き換え、自分の半生を
振り返ってみた次第。副題は「ヰタ・タカラヅカアリス」。


  第一章 ミュージカル

 「どうして宝塚を観るんですか」と聞かれたことがある。あまりに直接的すぎる質問だ
ったため、一瞬言い淀んだのち、「もともとミュージカルが好きだったから」と答えたが、
内心では一寸違うな、と考えていた。
 昭和三十八年、束京宝塚劇場・星組公演『虹のオルゴール工場』が初めて観た宝塚であ
るが、レベルの高さに感心したものの、ハマルという感じではなかった。観劇を薦めたの
は当時、京都府立医大生たった久富文雄君で、「ミュージカル好きの君なら絶対気に入る
はずだ」とあった。確かに、プロローグーつとってみても、セリフから歌へ、ソロからコ
ーラスやマスダンスヘ、というダイナミックな展開は素晴らしく、かつてのハリウッドミ
ュージカルを彷彿とさせた。敢えて言えば、戦後、日本で和製ミュージカルと銘打って発
表された数多くの作品中、真にその名に値するのは、この作品と、同じ作者(高木史朗作
・演出、中元清純 作曲)による『港に浮いた青いトランク』の二作品だけだと思う。
 ともあれ、宝塚を好きになった理由はミュージカルだけではなかったようだ。



  第二章 私の会った大物スター

  翌三十九年、二回目の宝塚、雪組公演『クレオパトラ』を観た。菊田作品らしい才気
溢れる楽しい舞台であったが、宝塚ファンになったという認識は未だなかった。ただ、主
題歌が耳に残り、終演後には口ずさめるようになっていた。こういう経験は昔はよくあっ
たが、今は殆どない。私か老いたのか、作曲家のレベルが落ちたのか、多分両方だろう。
ところで三十年後、大阪・北新地のクラブで真帆(まほ)志ぶきに会い、その主題歌を披
露し喜ばれたことがある。当時は川崎製鉄の営業部長で、羽振りも良かった。その店では
水代玉藻(みずしろたまも)にも会った。いかにも老舗の大店の出らしい、品のいい艶や
かな人だった。
 昭和四十三年には大物中の大物、上月晃(こうづきのぼる)に会った。川鉄の "社員
と家族のための慰安会" が大劇場貸切という形で行われ、当時、社内報の担当者だった私
にインタビュー役が回ってきた。時間がないとかで、開演五分前に舞台の裏でやることと
なり、羽根飾りをつけた大勢のタカラジェンヌが取り囲む中、質問開始。その最後に「理
想の男性は?」と聞いたとろ、私の眼をじっと見て、あの特徴のある声で「誠実な人」。
震えたなあ。



  第三章 憧れの神戸

 昭和四十年、川崎製鉄に入社。最初の一ヶ月、神戸本社で新人社員教育があり、次いで
配属先の千葉製鉄所で一ヶ月の現場実習教育があった。
 ところで、キムタクが主演したテレビドラマ『華麗なる一族』(山崎豊子原作)のモデ
ルが川崎製鉄であることをご存じだろうか。神戸の一平炉会社が八幡・富士をはじめ官民
挙げての大反対を押し切り高炉メーカーヘと成長したわけだが、その舞台が千葉製鉄所だ
った。したがって、製鉄所の士気は高く、活気に溢れていたが、一新入社員としては、教
育期問中過ごした神戸と比較して、そのギヤップに愕然としていた。
 風光明媚でいて都会、国際色豊かな港町でありながら、「細雪」の舞台としての雅さも
ある。あの頃の神戸は日本一魅力のある街だった。それにひきかえ、当時の千葉は田舎の
漁村が一気に京葉コンビナートに変貌する過渡期にあり、街全体が工事中という有様で殺
風景なことこの上ない。つくづく、神戸に残れば良かったと悔やんだものだ。
 その時、天啓の閃きが。そうだ、日比谷の東宝劇場に行けば憧れの神戸に逢えると。い
よいよ核心に近づいたようである。



    第四章 架空デート

 もう一つ、宝塚通いを始めた理由がある。当時、製鉄所の現場の社員は三班に分かれ、
朝・昼・夜勤を一週間ごと交代して勤める三直三交代制(三班勤務という)であった。事
務職の場合、班勤務者は少なかったが、唯一の例外が鋼材工程係で、同期では唯一人、私
が配属された。班勤務に入ると、三交代の連続勤務のため、完全な休日はなく、代わりに
二日の代休が生じる(註:今は四直三交代制で五勤二休の勤務態様)。代休は常昼者のい
る平日に消化しなければならない。考えてみてほしい。同期の友達は全員会社に行ってい
る時、恋人もいない若者がどうやって二日もの休日を過ごすのか。宝塚という、架空を相
手のデートの始まりである。最初のデートは四十年七月の月組公演『スペードの女王』。
殺される老夫人役を演(や)った美吉佐久子(みよしさくこ)が印象深い。
 当時のデートコースは観劇後、神田の古書街に寄り雑誌・歌劇の古本漁り(お陰で昭和
三十五年以降の全冊を収集)をし、新宿まで歩き中村屋でチキンカレーを食べる。寮へ帰
る夜道で口ずさんだ『笛吹きと豚姫』の主題歌"笛の音が"の哀切なメロディがことさら胸
に染みた。



  第五章 疑似恋愛(1)

 架空デートとなれば、自ずと疑似恋愛という言葉が出てくる。ありていに言えば、現実
の恋人がいないものだから、それを舞台上のヒーローやヒロイン、あるいは演じるスター
に求めるということ。宝塚を好きになった理由も突き詰めれば、平凡な結論に落ち着いた
ようだ。
 宝塚の舞台で胸をときめかせた"恋人"は何人かいるが、ひとり挙げるとなると昭和四十
一年の雪組公演『微風(そよかぜ)とバイオリン』でのロッテ・その役を演じた安芸(あき)
ひろみである。宝塚オペレッ夕と銘打たれたこの作品は、皇太子との身分違いの恋をあき
らめるため、愛想づかしの芝居を打つ健気な女優の卵、ロッテ、という宝塚の王道を行く
筋立てだが、まず中元清純の音楽がいい。オペレッ夕は『メリー・ウィドゥ』くらいしか
知らないが、それに十分匹敵する作品だと思うが、久富先生どうですか。安芸は昭和三十
六年初舞台。パリ公演にも選ばれた伸び盛りの若手男役で、今回初めての女役だったが、
従来の娘役にないグラマラスな容姿と素直さで、まさに一世一代の魅力的なヒロインを演
じ上げた。


  第六章 疑似恋愛(2)

 ロッテ(安芸ひろみ)に恋した理由は、役に成り切り全身全霊を打ち込んだ安芸の純粋
さが伝わったからだと思う。CDの説明書の引用になるが、相手役の真帆しぶきも「安芸
さんは公演の間、この役大好き、ずっとロッテを演じたい。もう辞めてもいい、と言って
本当に辞めてしまった」と語っている。
 もう一人"恋人"を挙げるとすれば、昭和四十一年星組公演『ラ・グラナダ』のフラスキ
ータ・高城珠理(たかしろじゅり)である。まず、脚本・演出の内海重典(うつみしげの
り)が良かった。幕開きのスパニッシュダンスからラストのフラスキータの絶叫まで、
舞台展開の見事さといったら。『南の哀愁』以外、他にこれといって傑作のない(失礼)
内海の畢竟の名作であり、何かが降りてきたというしかない。もちろん『ラ・グラナダ』
をはじめラテンの名曲を易々と歌いこなす上月晃の歌唱力も素晴らしく、彼女は宝塚史上
最高の歌手だったと断言できる。そして高城珠理。ジプシー女らしい蓮っ葉な言動の中に
男をひたすら恋する心情が溢れており、上月とのからみなど思わずドキッとさせる雰囲気
があった。宝塚の男役が女役をやるとどうしてあんなに色っぽくなるんだろう。



  第七章 黄金時代(1)

 宝塚歌劇の黄金時代はいつか。人によって答えは様々であろう。ただ、それを主張する
にはそれなりの資格が要る。観劇歴十年以内ではやはり無理で、最低でも三十年以上は必
要だろう。そこで我田引水的ではあるが、宝塚ファン歴五十年の私に言わせてもらいたい。
 パリ公演の年、私か宝塚にハマった昭和四十年から那智わたる引退の年、四十三年まで
を黄金時代としたい。まずスター達。トップはマル〔那智〕サチ〔内重(うちのえ)のぼ
る〕オソノ〔藤里美保(ふじさとみほ)〕と麻鳥千穂(あさどりちほ)の入団二十八・二
十九年組に真帆と淀かほるが加わる豪華さ。中堅は花の三十五年組と謳われたコン〔牧美
沙緒(まきせさお)〕ゴン〔上月〕 コウ〔甲にしき〕 ミヤコ〔古城都(こしろみやこ)
が人気を競い、後のベルバラブームの立役者、鳳蘭(おおとりらん)、汀夏子(みぎわな
つこ)、安奈淳(あんなじゅん)が入団一~二年の新人という絢爛さ、そして宝塚史上最
高のプリマドンナ・加茂さくらが花を添え、さらに天津乙女(あまつおとめ)、春日野八
千代(かすがのやちよ)の両御大も健在とくれば、これはもう黄金時代としか言いようが
ないではないか。ところで何故、那智わたるなのか。彼女は宝塚が生んだ最も宝塚らしい
スターだと思うからである。


  第八章 黄金時代(2)

 有馬稲子(ありまいねこ) 八千草薫(やちぐさかおる) 月丘夢路(つきおかゆめじ)
新玉道代(あらたまみちよ)……等々、戦後しばらくの問、宝塚は銀幕スターの養成所の
観さえあった。その後、テレビの発展、プロダクションの興隆等、状況の変化により、宝
塚自体も変質したというか、本来の姿に回帰したように思う。即ち、いわゆるアマチュア
が歌劇団で鍛えられ、成長し、一流の芸能人になる、それをファンは見守り、応援すると
いう本来の形に。那智わたるはその意味で、最も宝塚的なスターであった。
 次に、作・演出陣を見てみよう。白井鐵造、高木史朗、内海重典が三木柱で、これに鬼
才といわれた若手の鴨川清作と東宝重役の菊田一夫が加わる。この強カスタッフが揃って
作家としての旬を迎えたことが大きい。彼らの代表作は殆どこの時期に集中している(白
井は別格で高齢だったが、仕事振りは堅実。『あゝそは彼の人か』など、老いは微塵も感
じさせない)。特筆すべきは鴨川で、『エスカイヤ・ガールズ』、『京の川』、『龍鳳夢
(ロンハンモン)』、『シャンゴ』と、ショーも芝居も、和物、洋物、中華物(?)何で
もござれの才子で、自分の早世を知っていたかのような獅子奮迅の活躍だった。
傑作『ノバ・ボサ・ノバ』を再演で観られる現代のファンは幸せである。



  第九章 少子化(1)

 『微風とバイオリン』の時だったか、東宝劇場で女子中学生のグループと隣り合わせに
なったことがある。観劇中、何気なく隣の子に「あの人は誰」と聞いたところ「メリー
(松乃美登里)さんよ。知らないの」と言われ、そのもの言いのかわいさに宝塚が余計好
きになった記憶がある。思えば当時は小中高生の少女の観客が多かった。今はその十分の
一にも満たないのではないか。少子化が心配である。高齢化は仕方がない。時代の趨勢だ
から。少子化は宝塚の本質に係わる問題だと思う。
 宝塚と他の芸能との違いは何か。一言で言えば、未婚の女性(少女)だけの劇団によっ
て生まれる純粋性・潔癖性・倫理性が際立っているということである。まさに清く正しく
美しくであり、それを最も敏感に感受するのも少女達であると考える。観客あっての劇団
である。観客層の変化が宝塚の変質につながることを危惧している。旧名称「宝塚少女歌
劇団」の少女の意味するところは大きい。
 ではどうやって"大切な"少女達を宝塚に呼び戻すか。



  第十章 少子化(2)

 いよいよ我々中高年(何才までをそう呼ぶのか知らないが)ファンの出番である。世代
間格差というか、比較的"お金持ち"の中高年がプアな若年層、幼年層を歌劇場に連れて行
き、ファンに育てる構図である。しかし、連れて行っても駄作に当った場合はオジャンで
ある。逆効果もありうる。我々が自信を持って推薦できる作品の上演がポイントになるが
新作では心許ない。過去に自分が感動した名作、傑作の再演なら安心だ。百周年を迎え、
大々的な再演のシリーズを望む次第である。
 演目は、これまで『 』で紹介した作品ならすべてOKだが、菊田作品では『霧深きエ
ルベのほとり』と『花のオランダ坂』を追加したい。さらに郷土芸能もので渡辺武雄演出
の『藍と白と紅』、初のハリウッドミユージカル『オクラホマ』も―と切りがないが、あ
まり旧すぎて現代っ子には向かないのではないかと心配の方もいると思う。しかし『ME
AND MY GIRL』を考えてほしい。初演は一九三七年ですよ。世代は違っても感動
する対象はそうは変わらないものだ。



  エピローグ

 その後の宝塚遍歴を振り返ってみよう。昭和四十三年、千葉製鉄所から神戸本社へ転勤。
憧れの神戸の住人になり、宝塚熱が若干醒めたのは皮肉である。四十五年、結婚。疑似恋
愛の必要がなくなったわけだ。そして四十八年、長男、五十二年、次男誕生により物理的
に宝塚通いが難しくなってきた。さらに五十五年、東京転勤、五十八年、札幌転勤と続き
長いブランクに入る――。
 再開したのは二〇〇三年。定年退職をし、佐賀に帰り、母がやっていた学生寮の経営を
引き継いだ頃。女子寮(二十四人)のため女手が必要で、神戸に居る妻が隔月(偶数月)
に佐賀に来てくれるが、奇数月には東京の姉に留守番を頼み、私が神戸に帰って宝塚を観
るという生活をここ十年続けている。
 宝塚を観る目的というか、楽しみは昔とはもちろん違っている。端的に言えば、子供の
成長を見守る親の気持。本来の宝塚ファンになった訳だ。その意味で、佐賀出身のタカラ
ジェンヌを応援する「さくら会」に入会できたのは僥倖だった。そして、佐賀出身の初舞
台生の口上を是非観に行きたいという妻は、いつの間にかすっかり宝塚ファンになってい
た。
                   (完)
斜光19号 2014年

           S.38 東京宝塚劇場
          
                 (α編集部)


*14 12.7 更新

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